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エリサベタ (ルーマニア王妃) : ミニ英和和英辞書
エリサベタ (ルーマニア王妃)[ひ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 
王妃 : [おうひ]
 【名詞】 1. queen 
: [ひ]
 【名詞】 1. princess 2. consort 

エリサベタ (ルーマニア王妃) : ウィキペディア日本語版
エリサベタ (ルーマニア王妃)[ひ]

エリサベタ・ア・ロムニエイ(, 1843年12月29日 - 1916年3月2日)は、ルーマニアカロル1世の王妃。ドイツ語名ではエリーザベト・パウリーネ・オッティリーエ・ルイーゼ・ツー・ヴィート()。カルメン・シルヴァ()の筆名をもつ詩人・小説家でもあった。
ドイツ王族ヘルマン・ツー・ヴィートとその妃であるマリー・フォン・ナッサウ=ヴァイルブルク(ルクセンブルク大公アドルフの同母妹)の娘として、ノイヴィート・アム・ライン(現在のラインラント=プファルツ州の町)で生まれた。一時はイギリスプリンス・オブ・ウェールズ、アルバート・エドワード(のちのエドワード7世)の花嫁候補となっていた。未来の夫カロルと最初に出会ったのは、1861年のベルリンであった。2人は1869年に結婚し、一人娘マリアを1870年にもうけたが、わずか3歳で亡くした。
露土戦争のさなかの1877年から1878年にかけて、エリサベタは負傷者の看護にあたった。彼女は、ルーマニアで女性の高等教育を支援し、多くの慈善活動団体を立ち上げた。彼女は優れたピアニスト、オルガン奏者、歌手、画家でもあった。何にもまして彼女の名前を知らしめたのは文学の創作活動である。特に詩、フォークロアバラッドでは、オリジナル作品はいうまでもなく、ルーマニアの伝説を多く盛り込んでいる。
1881年、子供のないカロル1世は、次の王位を甥フェルディナンド1世に譲ることに決めた。ルーマニアでは全くの外国人だったフェルディナンドは、エリサベタの侍女エレナ・バカレスクと親密な関係になった。エリサベタ自身もエレナとは仲が良かったため、結婚を許されない2人の恋を応援した。
この結果、エリサベタはノイヴィートへ、エレナはパリへ出国することを余儀なくされた。この旅行は、フェルディナンドの花嫁を探す密命も帯びており、この一件はエリサベタの夢想家としての想像力に磨きをかけた。フェルディナンドの花嫁として白羽の矢が立てられたのが、イギリスの王族メアリー・オブ・エディンバラだった。
1916年、エリサベタはブカレストで亡くなった。




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エリサベタ (ルーマニア王妃)」の詳細全文を読む




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